*column 牛来美佳 執筆*


上毛新聞 【視点オピニオン】2019.12 ~ 2020.12

牛来美佳が執筆参加。< 全7回 >


【2019.12.18 掲載分】

shadow 本当の自分を芯に置け

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

「誰かを見て焦ったり 誰かと比べてみたり一体、どこに自分が居るの…」

 

 出だしにそうつづった私の楽曲がある。

 

 必死に夢を追いかけてる途中、ふと思ったこと。自分勝手な固定観念で良くも知らずにうらやんでは憎んだり…。人は経験していろいろなことを覚えていく中で、必要以上に他人(ヒト)に執着する観念を持つ光景を目の当たりにして、自分とは違う世界で生きてるモノたちに見えた。

 

 私は歌をうたうひとりである。そして、歌詞につづった思いは情景を浮かばせるほど、伝えるためだけにあると思っている。プロ意識に欠けているかもしれないが、上手に歌おうと思ったことは一度もない。その会場で私を知るも知らないも、人々に届け、その心を揺さぶり、どれだけ聴いている人の本当の心を引き出せるのだろうかと思って歌っている。

 

 世間体や一般的に言う安定、妥協と言ったようなイメージをこの世に強く感じる。それは誰のためであって、何のためであるのか…。だって、実際にその本心を隠せずに中途半端に動く景色があるから、無造作に人を傷付け、責任を負えずに逃げるように、どんどん本当の自分が見えなくなってしまう。たとえ、うらやむ誰かに自分がなったとしてもそこにはまた乗り越えていかなくてはならない壁が必ずあって、決して楽な道などどこにもないと思うから。

 

 ずっと若い10代の頃に出会ったある大人の人は、やることなすことが全てかっこよく見えた。何もかもがトントン拍子に進んでいき、その人だけは楽な道と言うレールやじゅうたんが敷かれた上をただ歩いているように見えたことがあった。それが子どもながらに抱いたうらやましさだったと思う。

 

 自分が大人になり、そして現在のシンガー・ソングライターという肩書が定着し始めた頃、初めてねたみのような感覚に出合った時があって、あの頃に見た大人の人を思い出した。きっとものすごくたくさんのモノと葛藤して、自分と常に向き合い、また向き合ってはもがき、投げ出すことなく自分を突き通していた人だったのだろうとこの時を経て気付かされた。

 

 人生は一度きり…。大人とか子どもとか、男とか女とか、年齢とか、そう言ったことを一切抜きにした自分自身という人を知るための道のりなんだと思う。

 

 意外と盲点はシンプルなのだと思う。本当の自分はどこにいるのか…。ちゃんと見つけ出し、自分の芯に置くことだと思う。2013年にリリースしたアルバムの1曲目に収録した「shadow」と言う楽曲に冒頭の一節をつづった。

 

 「本当の自分としっかり向き合い、自分の芯に置け」。それを伝えたかった。


 

 シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2019/12/18掲載


【2020.2.11 掲載分】

全町民強制避難区域 いつかまた浪江の空を

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

 

 ― 遠く遠く窓の外眺めて元の未来探すけれど/どこにあるの-。

 

 東日本大震災から間もなく丸9年という月日が流れようとしている。わが故郷浪江町は震災の直後に全町民強制避難となった。今改めて「全町民強制避難区域」と言う現実に起こった数えきれないほどの思いや感情を振り返る。

 

 私たちは当たり前に過ぎない、何ともないこの日常に生きている。慣れた道から慣れた景色の中で通勤したり、通学したり、くだらないことで笑ったりけんかしたり、いつものように。その当たり前が突然なくなってしまった。

 

 町がそのまま存在しているのに住めなくなってしまった喪失感から今まで味わったことのないような感情が勢い良く心を揺さぶるが、それを表現する言葉が見付からない。そんな中、急に思いが心の中で流れ出し、一気に舞い降りてきた震災3日後の真夜中、避難先のトイレで携帯につづった。

 

 -僕らの町は海も山もある/素晴らしい自慢の町さ/どうか希望の光よ今ここで輝いて…/暖かい手が止(や)むこと知らずに/必ずつながっていること/忘れないで僕たちは絶対、生き続けるつながり続ける-。

 

 後にデビューアルバムに「浪江町で生まれ育った。」と言うタイトルで収録した。ただ、町から離れた震災3日後の思いとは裏腹にやっとの思いで入域できた数カ月後の浪江町は荒れ果て、津波の被害も手つかず。町の中は誰も居ない、車も走らない。何よりも音がない。ただただ怖かった。6頭の牛が車道いっぱいに横に並び、町の中を歩いている姿を目の当たりにした時は、とにかく衝撃的だった。

 

 浪江町が壊れていく。この表現も含め、感情とぴったり合う言葉がいまだに見付からない。ただ、見上げた空があまりにもきれいで、この美しさはここでしか見られない特別な空だった。むなしさと無力さでそのまま浪江町から立ち去りたくなくなった。このままここに置いていってほしいと思ったあの時の気持ちは今でも忘れることはない。

 

 震災の約2年後にある作曲家と共同で作り始めた曲があった。できた頃には心がついていけなくて葛藤が続き、離れた曲でもあった。その曲と向き合えたのはさらにその約2年後。2015311日に発表した「いつかまた浪江の空を」である。切実な思いの中に自ら希望をつづった曲だが、希望を歌うにはまだ心がついていけなかった。

 

 

 ただひとつだけ思った。また浪江町のきれいな青空の下で、当たり前に過ぎない日常があって、人々の生活が潤い、笑い声や自然の鳴き声たちであふれている浪江町を見てみたい。そう思った。まだまだ復興には程遠いのが現状。だけど未来の浪江にささぐいつかまた浪江の空をあなたと眺める日まで私は諦めない。

 


 シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2020/2/11掲載


【2020.3.11 掲載分】

震災9年 浪江と共に生きていく

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

 ここは懐かしい。どうやって遅刻をごまかそうかと理由にならない理由を考えながら重い足取りで向かう。今ではすっかり見晴らしが良くなって、当時は見えるわけもない位置からただただ景色が広がって寂しそうに私に何かを訴えている気がして

 

 そう、私は今、ここに自分がいた証しを探すかのように浪江町を歩いている。変わり果てても、とんでもなく生い茂り避けるようにして通らなくてはならない場所も、昨日まで住んでいたように思い出す。進学のため、15歳で故郷を離れ、また19歳の時に娘の出産を機に浪江町へ帰郷した。娘が生まれてからは娘と過ごした時間も重なって心がギュっと締め付けられる。

 

 「小学校に上がるようになったら、帰りは毎日こっちさ来るんだべな~」っと小学校の近隣にある実家ではよく孫の成長に未来を描いて話してたこと。その表情は楽しみでしかないほほ笑みで、さらには私の小学生時代にさかのぼって話が膨らんだ。

 

 東日本大震災、そして私たちが経験した全町民強制避難から丸9年の月日が流れた。壮絶な日々の中、数々の思いは歌で伝えていくと決心した道を今も歩んでいる。今では群馬の家に帰って来るとほっとする自分もいて、複雑な思いが込み上げる。震災から時が流れても真相は変わらない。それを抱えながら今日も散り散りになったそれぞれの場所で私たちは生きている。

 

  そして今、私が思うこと。ただただ会いたい気持ちに尽きる。先日、久々に地元の友人2人それぞれと電話で話した時、不思議なことに同じことを言っていた。「なんだかさ、地元を失ったってやっぱり大きいよね。今頃になってどうしていいのか分からなくてさ。みんなに会いたくて参ったよ。本当に切ない

 

 9年と言う月日は義務教育全課程が修了する期間。そう思うと相当に感じるが、避難生活を経ての9年間はみんな知らない土地でとにかく必死で必死で、やっと本当の気持ちに向き合ってきた時間なのではないかと感じた。そして同時にどうしようもできない現実がまた切なく、またかみ締めて歩いていくのだろう。

 

  震災の約1年半前に建てたばかりだった実家は売り家となった。私と娘が住んでいたアパートは半年前に解体されていた。本当に帰る場所がなくなってしまった気持ちが止まらず、心のどこかで迷子になっている。

 

 

 だけど、裏腹に群馬で出会った人々たち、音楽がなければ、この道を選択しなければつながらなかったことがほとんどで、たくさんの人々に支えられながら今、ここで生きている。人の温かさに触れながら、また私も少しずつ新たな自分に未来を描いて歩いていきたい。誰かが生きたかった今日を大切に生きていく。私は浪江町が大好きです。会いたい思いをはせて。

 


 シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2020/3/11掲載


【2020.5.24 掲載分】

今からのメッセージ 未来開く行動問われる

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

 今のこの状況が続く中、いろいろなことを思い、感じる時間として受け止める。不思議と心が穏やかで、とても必要な時間と向き合って生きている気がする。目を閉じると最高最善のイメージが浮かんでくる。頭の中が無限大に自由になり、優しい時間に包まれる。私だけの大切な時間。そんなリラックスをステイホームで楽しんでいる私が、今思うことを書いてみた。

 

 新型コロナウイルスは3.11と通ずるところがある。全く何の関連もなさそうな気がするけど、心の中を開けてもっと掘り下げていくと、何か大事な部分でつながっているような気がしてならない。

 

 世代、時代ではやりがあっても、どの時代も必ず何か共通していることがあると強く感じる。それは難しいことではなくて、すごくシンプルなこと。きっと「思いやる気持ち」なんだと思う。人はいつからだか、人間のエゴに対して収拾がつかなくなっているような気がする。また、自分の人生を自分の道で生きられていないことが多く存在していると感じる。

 

 震災や災害といった被害がいつどこで何があるか分からない。そんなことを近年で強く感じさせたひとつの出来事が東日本大震災だった。その後もさまざまな災害が各地で発生し、自然の力には逆らえないことを再認識しながらもそれぞれ何かを思い、感じることが多々あったと思う。

 

 だけど、今回はウイルスという目に見えないモノとの戦い。最悪の事態を招くと死に至るほどのこのウイルスがここまで日常を奪っていくものなのかという信じられない現実がある。何かの映画のストーリーに似ているような事態が起こっている気がして-。

 

 状況は違うけど、どこかあの時と重なる部分がある。私たちが原発事故で放射能という目に見えない恐ろしいモノにより、あの日まで住んでいた故郷を失ったあの時。長い時を経て「警戒区域解除」となり、いくら復興へ向かっても、探す元の未来はもう二度と戻ることはない。

 

 緊急事態宣言が発令され、日常が奪われることで人々は何を感じるべきなのだろうか。私たちは問われている。奪い合うことではなく、尊重し合うような、一人一人への、人々への愛情がどんどん薄れていく気がして、私はそれが怖い。われが先ではない、お先にどうぞと、できないのだろうか。「たった一人がたった一人のために」ができたらどんな未来が待っているのだろうか

 

  「このままじゃダメだ」というメッセージに聞こえる。それでも傷つけたり、それすら何事もなかったことにする世の中だ。どうか自分の心へは素直に、自分へは正直に、どうか真実だけは残る世の中であってほしい。今この時をメッセージと解いたら少しでも未来が明るいのではないかと、私は今日も目を閉じる。

 


 シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2020/5/24掲載


【2020.7.21 掲載分】

二人三脚 広がる夢への旅は続く

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

 

  お父さんに肩車をされている子を見て、言葉を発することはないけれど、目で追っている娘の顔を見て、「ほら行くよー」と娘の目の前にしゃがんだ。娘の小さな身体が私の背中にピッタリとくっついてた。私の頭から前に転げ落としてしまうのではないかと言う不安を隠し、あたかも慣れているように肩車した。私の精いっぱいの意地だった。

 

 当時3歳くらいだった娘はあっという間に高校受験生になった。19歳の時に授かり20歳になって間もなく娘を出産した。「子どもを産み、育てるなら地元で」と強い思いがあり、妊娠7カ月の頃に生まれ育った福島県浪江町へ帰郷(移住)をした。中学を卒業して親元を離れて進学した私が、離れてひしひしと感じたのが田舎町の良さだったからだろう。

 

 今でも生まれて初めて会った時の顔を鮮明に覚えている。初めての感覚、感情、全ては今までに経験したことのない感動とともに私は母親になった。それから、娘が生まれて数年で二人三脚の人生が始まった。若さと勢いで突き進む毎日だったが、困難も多く、精神的にも肉体的にも限界を感じる日々もそこに存在していた。

 

 いろいろなことに余裕がなくなると、遊んだ遊具の片付けができないとか、ささいなことで娘に当たり散らしてるかのように強く怒ることも増える。話したいこと、見せたいものがあって娘が声をかけてきても、「忙しいから後にして!」と私の口癖が始まっていた。

 

 一番精神的につらく苦しかった時のこと。寝室で洗濯物を畳んでいると、向かいの部屋で「よいしょっ!」と遊具を運んで遊ぶかわいい声が聞こえてくる。その声に救われている半面、やりきれない思いもあふれて気付いたら涙が止まらなくなっていた。

 

 娘に見られないように下を向いてひたすら洗濯物を畳んでいたが、視界の端にぼんやりとこっちを見てる娘の姿を感じた瞬間、娘はためらうことなく近付いて来て私をぎゅーっと抱きしめながら言った。「大丈夫だからね。一緒に頑張ろうねー。大丈夫だから」

 

 抱きしめる娘の小さくいとおしい力は、これまでもこれからも私にとって世界一の包容力。私の一番の理解者でもある。

 

 母親らしいことは何一つとしてできないけど、あの時決めたこと、それは「私という人間と母子家庭じゃなきゃ見られない世界を見せてあげる」という生意気にも強気な決意。もう20歳すぎの頃のような勢いは衰えたけど、まだまだ娘に見せたい景色がたくさんある。そして無限に広がっていく彼女の世界観はいつか世の中で輝くモノだと願い、信じている。

 私たちの二人三脚は不思議なほど深い愛と強い絆を味方にこれからも旅を続ける。

 


 

 シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2020/7/21掲載


【2020.9.15 掲載分】

本当の自分 魂こめて、歌い続ける

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 

 歌を通して一人一人の魂に語りかける。隠している本当の自分を引き出すように、その人生を変えてやろうと思って歌う

 

 何もかもが思い通りの人生などない。自分の気持ちに素直に生きることよりも、周りや世間にどう見られているかで左右されたり、履き違えた責任感が邪魔をして、結局自分の素直な気持ちよりもそのようなモノに惑わされて生きてしまう。そんな人をたくさん見てきた。

 

 私自身を振り返ると、震災の経験だけではなく、それ以前から波瀾(はらん)万丈だった。恵まれて育ったことも否定できない。だけど小さい頃から「孤独」というモノを強く感じていた。小さい頃から独自の世界観があったからなのだと思う。小学1年の頃、生きることが怖くなって死んでしまうこと生きることの理由みたいなものを必死に探していた時があった。それは自分の中で何かを納得したい気持ちがあったから。

 

  「あの感情は何だったのだろう」。もう大人になった私に言葉ではあの気持ちを表現することはできない。だけど感覚だけがしっかりと脳裏に焼き付いている。

 

 カタチが変わってもあの頃のように「孤独」と背中合わせで生きている。ただ私の場合、この孤独さを味方にしてずっと生きているではないかと最近気付き始めた。それは「詩」という共通点から。8歳の頃から「詩」を書き続けている。その時に降りてきた言葉をその瞬間に書き留める。授業中に降りてきて教科書やノートの隅っこに書きつづっていたことがよくあった。中高生になっても大人になってもその癖が染みついている。

 

 悔しいことに震災があって全部は持って来られなかったけど、10代の頃に書いた自分の歌詞に時を経て、心打たれることもあったりする。あの頃は孤独感が嫌で嫌で、抜け出したい気持ちでいつも書いてたけど、何ともいえない角度から生まれた「詩」は色あせることなく人の心に響くモノであると信じたい。

 

 自画自賛の話をしようとしているわけではないけど、独自の世界観を孤独と感じ、抜け出したかったのだろう。今ではその孤独というモノに向き合えば向き合うほど、本当の自分に出会える気がしてならない。すると自分の思いに素直に生きられないことと、孤独感に向き合えない寂しさは同じような気がした。

 

 教科書やノートの隅っこに書き続けていたように、普通の何げない日々の中で、確かに強く何かを思うトキがある。その言葉たちや思いの表現が今、曲となって伝えるために歌う楽曲へと進化していく。私はいつまでもその一人一人の心に届け、魂を揺さぶる。いくつになっても、本当の自分に出会わせるキーパーソンのような存在である歌い手でありたい。そして歌い続けていきたい。

 


シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。

2020/9/15掲載


【2020.11.6 掲載分】

娘の自作自販機 自分の道歩む先に輝き

シンガー・ソングライター 牛来美佳

 

 お菓子の小さな空き箱で何かを作り始めた。サイズが小さかったのか、今度は少し大きな空き箱で黙々と作業している。そんな娘を見ながら、私はリビングへと下りた。夕飯を作っていると、娘が何かを持ってきた。

 

  「お母さん、これね、何度も作り直してできたの! ここを押して」。興奮気味で言いたいことが説明になってなくて、言われるまま押してみた。すると下の空洞になっている部分から消しゴムが出てきた。娘はうれしそうに話を続ける。「これね、自動販売機の仕組みを作ってるの!

 

 さらに説明しながら自分で操作していると、「あっ、押さなくても揺らすと勝手に出てきちゃうダメだ。ちょっと待ってて、手直ししてくる」。そう言ってまた部屋にしばらくこもっていたが、夕飯になり、手直しした作品はその日は披露されなかった。

 

 数日後のこと、娘は自信満々に手直しした作品を持ってきた。驚くことにミカン箱をもう一回り大きくしたような空き箱で、見た感じもレベルアップしていた。表側の上部に5種類くらいのあめがディスプレーされている。

 

  「お母さん、ここにお金を入れて、自分の欲しいあめの下にある小さなレバーを下げてみて!」。段ボール素材の小さなレバー。お金を入れてレバーを下げると、選んだ種類のあめが一つ、下の空洞部分から出てきた。思わず「すごーい」と大きな声で盛り上がった。

 

  どういった手直しをしたかとか、何回も何回も考えてお金を入れると反応する小細工、選んだもの一つだけが出てくる仕組み、誇らしげに説明をしてくれた。友人たちが訪ねて来た時には、自慢げに自作の自動販売機をみんなに操作をさせて、驚く反応にうれしそうにしていた。

 

 もう今から7年前、娘が当時小学2年生だったころの話。この時のことをなぜか最近、強く思い出した。自動販売機を自作する娘の姿、その諦めないで一つのことに向かっていく過程が、今の私の心に改めて響いた。コロナの状況もあって世の中が不安定で、まだどんよりしているように暗いからなのか

 

  私の曲の歌詞に「私(あなた)はどこにでも行ける! ふさがないで、満ちた可能性を」とある。どんな時もたどり着きたい場所へは必ず行ける! その可能性は無限大にあって、それには老若男女問わず、揺るがない強さが諦めない理由を教えてくれるような気がする。

 

 今まで過ごさなかった、今まで目にも留めなかった、そんな時間に視点を向けると、もっと何かに夢中になれる自分に出会えるかもしれない。その自分はこれまでにない本当の自分かもしれない。誰かのせいや何かのせいにするのではなく、どんな時も自分の道を歩くのだ。きっと明るい未来は来る。そう信じて

 


シンガー・ソングライター 牛来美佳 太田市

 【略歴】福島県浪江町で育ち、東日本大震災発生時は福島第1原発で働く。多くの命やモノが失われ、「想いを伝え続けたい」とシンガー・ソングライターとして活動。 

2020/11/6掲載

mica goRai

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