*MEDIA*


2024.4.22「上毛新聞」掲載

「大切な人 思い出す曲」

 歌手・牛来美佳さん(太田市)が新アルバム 福島・浪江町出身

 

東日本大震災で被害を受けた福島県浪江町出身で、群馬県太田市に移住したシンガー・ソングライターの牛来美佳さんが3年半ぶりの新アルバム「HISTORY」をリリースし、同市細谷町の結婚式場、冠稲荷神社ティアラグリーンパレスで21日、奉納式とライブが開かれた。

60周年を迎える同社が「結婚式だけでなく、さまざまな祝いに使用できる曲を」と牛来さんに依頼し、共同で制作を進めてきた。

関係者約30人が参加した奉納式で、牛来さんはアルバムの代表曲という「変わらない愛」を披露=写真。「人の出会いやつながる思いを書いた。大切な人を思い出す曲になってほしい」と込めた思いを語った。

ライブには約80人が訪れ、新曲を楽しんだ。同社の大塚嘉崇社長は「牛来さんらしい優しく、力強い曲になっている」と話した。

 

アルバムは7曲入りで、同式場や道の駅おおたなどで取り扱う。


2023.2.27「中日新聞」全国版  掲載

福島県浪江町出身のシンガー・ソングライター牛来美佳、

CD発売「歌がひろがるのがうれしい」

 

 

 福島県浪江町出身のシンガー・ソングライター、牛来(ごらい)美佳(37)がメジャーデビューCD「いつかまた浪江の空を」を発売し、27日に東京都文京区のキングレコードで取材会を行った。

 

 22日に発売した同曲は、故郷浪江町への思いと復興への祈りを込めた作品。牛来が作詞し、縁あって人気作曲家の山本加津彦さんが作曲を買って出て、2015年に発表。徐々に人気が広がって、昨年3月に配信された。

 

 牛来は11年の東日本大震災で、福島第一原発内にあった関連企業での勤務中に被災。当時、5歳だった長女とともに群馬県太田市に避難した。

 

 故郷への強い思いから「いつか―」を作ったことが、小さいころからの夢だった歌手デビューにもつながった。牛来は念願のCDを手に「形になって、いろいろな方にまたこの歌が広がっていくのがうれしいです。新たなスタートラインに立って、多くの人に届けていきたい」と笑顔で話した。

 

 「いつかまた浪江に」の望郷の念を募らせつつ、太田市で避難生活を続ける。音楽活動のかたわら、地元の「道の駅おおた」で“副駅長”としても勤務。「地元の皆さんにも応援していただき、感謝したい」と話す。

 

 CDデビューの夢もかなえた牛来の次なる夢は、「NHK紅白歌合戦」への出場。「いつかこの歌で出場して、たくさんの人と一緒に合唱できたら」と声を弾ませた。

<...「中日新聞スポーツデジタル記事」はこちらから。>


2023.2.20「東京新聞」群馬版  掲載

「いつかまた浪江の空を」避難生活続くシンガー・ソングライター牛来美佳さん

23日に群馬・太田で復興支援ライブ

 

 

 福島県浪江町で生まれ育ったシンガー・ソングライターで、群馬県太田市を拠点に活動する牛来(ごらい)美佳さん(37)の東日本大震災の復興支援ライブが二十三日午後二時から太田市民会館で開かれる。当日は故郷への思いを込めた代表曲「いつかまた浪江の空を」などを披露する。ライブの収益は運営費や諸経費の一部を除き、浪江町などの被災地に寄付される。(粕川康弘)

 牛来さんは二〇一一年三月十一日、福島第一原子力発電所内にあった協力企業に勤務していた際に被災。同年五月、五歳だった長女を連れて太田市に避難した。現在、その長女は高校生にもなった。牛来さんは「太田の皆さんには本当に感謝しきれません」との思いの一方で、「いつかは、故郷の浪江に帰りたいですね」との気持ちは交錯する。住民票はまだ浪江町に残したままだともいう。

 一八年から毎年、太田で開催するライブは今年で六回目。これまで五回あったライブ収益のうち約二百二十万円は、有志のメンバーと共に浪江町を中心とした被災地に送ってきた。「今回も多くのみなさんに応援してほしい」と話す。

 昨年三月からキングレコードから配信されている曲「いつかまた浪江の空を」は、今月二十二日にCDシングルとしてリリースされる。牛来さんは「皆さんに感謝の気持ちを伝えたい」との思いだ。

 ライブの入場料は前売り券が三千円、当日券が三千五百円で、新作CDも付く。小学生以下は無料。

 ライブ開催費に充てるためのクラウドファンディング(CF)も実施している。寄付はCFサイト「READYFOR(レディーフォー)」で「いつかまた浪江の空を」で検索。目標金額は五十万円で、三月五日まで受け付けている。問い合わせはG−namieプロジェクトへ。

 

 


2023.2.20「毎日新聞」掲載

♪いつかまた浪江の空を 大震災で太田に避難、

牛来さんCDデビュー 23日復興支援ライブ /群馬

 

 

 2011年の東日本大震災で福島県浪江町から避難し、太田市を拠点にシンガー・ソングライターとして活動している牛来(ごらい)美佳さん(37)のメジャーデビュー曲「いつかまた浪江の空を」を収録したCD22日、キングレコードから発売される。23日には太田市民会館で、恒例の震災復興支援ライブを行う。牛来さんは「当たり前に生きられることの大切さ、それを感じるための生き抜く力、乗り越える力を曲に乗せたい」と意欲を燃やす。

(上鵜瀬浄)

 

 12年前の311日、浪江町出身の牛来さんは東京電力福島第1原発の関連企業で勤務中だった。親類を頼り、当時5歳だった長女と郡山市に移動。その途中で爆発事故があり、同町は避難指示区域に。自宅に帰れなくなった。

 

 

...<この記事の続きは「毎日新聞デジタル記事」へ。>


2023.2.15「上毛新聞」掲載

福島・浪江町出身の牛来美佳さんが23日に復興支援ライブ 

 「震災のこと伝える歌い手に」 群馬・太田市

 

東日本大震災で被災した福島県浪江町の出身で、群馬県太田市で活動するシンガーソングライター、牛来美佳(ごらい・みか)さん(37)が23日、太田市民会館で復興支援ライブを開く。牛来さんは「震災のことを伝える歌い手になりたい。支えてくれる太田の皆さんに感謝の気持ちを込めて歌う」と意気込んでいる。

 

牛来さんは2011年の福島第1原発事故の後、太田に移り住んだ。高校生の長女と2人暮らし。太田での生活は12年となり、「避難という言葉に少し違和感を覚えるようになってきた」という。

 

 昨年3月、代表曲「いつかまた浪江の空を」をキングレコードから配信リリース。今月22日に同曲のCD発売が決まった。ライブは18年から毎年、太田で開いており、今回が6回目。

 

 昨秋、浪江町で開かれたイベント「復興なみえ町十日市祭」にゲスト出演した。「同年代の懐かしい顔がいくつもあり、少しずつ以前の姿が戻ってきている」と感じた。その一方、町内の建物が解体され、空き地が増えている現状も目にして、「何もない空間が寂しかった」。

 

 震災直後は長女とは震災の話をほとんどしなかったが、「少し時間が経った今、震災を伝えるために歌うことについて話してもいいのかな」と思う。「ライブでは歌を通じて、当たり前のように過ごす日常の大切さを伝えたい」という。

 前売券3000円、当日券3500円で、新作のCDが付く。小学生以下無料。問い合わせは太田市民会館(電話0276-57-8577)へ。

 

 35日までクラウドファンディングでライブの費用を集めている。目標額50万円。ライブの収益は運営費や諸経費を除いて浪江町に寄付する。


何年たっても 浪江思い歌う 原発事故で太田に住む歌手

 

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で福島県浪江町から群馬県太田市に避難し、シンガー・ソングライターとして活動する牛来(ごらい)美佳さん(37)の代表曲などを収録したCDが今月22日、キングレコードから発売される。23日には太田市民会館で被災地の復興を支援するライブを開く。

 

 CDは代表曲「いつかまた浪江の空を」のほか、新曲の「菜の花のきみへ」と「幸せのカタチ」や、曲のカラオケも入れた。合唱してほしいという。

 

 牛来さんは2011311日の震災発生時、福島第一原発で働いていた。東電の協力会社で作業員の放射線管理の仕事をしていた。事故後、5歳の長女を連れて避難先を転々とした後、同年5月から太田市で避難生活を送っている。

 

 長女は高校生になり、群馬暮らしの方が長くなった。牛来さんは「すっかり太田になじんだ。『避難』という言葉に違和感を感じるようになった」。だが住民票は元のままで「浪江町民という気持ちもある」と複雑な思いがある。

 

 遠く遠く窓の外眺めて/元の未来探すけれどどこにあるの/いつもいつも歩いていた道/笑い声が聞こえてた優しい町/あといくつ数えたら/その日は来るのですか(いつかまた浪江の空を)

 

  ふるさとへの思いを込め、被災地や群馬で歌ってきた。いまや、大震災を知らない子どもたちが増えた。

 「震災の記憶を風化させたくない。強制避難の苦しみ、それを乗り越えて生きていく強さ、当たり前の生活の大切さ。音楽にのせて伝えたい」

 

 合唱することで子どもたちに震災の経験を受け継いでいってほしいと願う。

 

 CDは税込み1500円。23日の太田市民会館の「復興支援ライブ2023」は午後2時開演。入場料はCD1枚付きで前売り券3千円(当日券3500円、小学生以下無料)。収益金は被災地に支援金として贈る。   (柳沼広幸)

<...この記事の「朝日新聞デジタル記事」はこちらから。>


2023.1.15「東京新聞」全国版  掲載

シンガーソングライター 牛来美佳さん

震災、いつか浪江へ帰りたい…

気丈な娘のおかげで歌い続けられる

 

 

道路寸断、ようやく娘を抱き締めた

 生まれ育った福島県浪江町は、秋になると川にサケが上ってくる自然の豊かな町です。大好きでした。でも、2011年の福島第一原発の事故で一変し、人が一時、住めなくなってしまいました。

 

 震災当時、シングルマザーの私は5歳の一人娘を保育園に預け、原発敷地内にある協力企業に勤めていました。娘はしっかりとした性格で、私も「娘こそわが命」と、2人寄り添って生きていました。地震発生時も会社にいました。大きな揺れと恐怖の中、娘は無事かと、すぐに同僚の車で保育園へ向かいました。

 

 道路が寸断され、やっとのことで着きました。娘の顔を見て、心から安心して抱き締めました。娘は事態の大きさを感じ、母親を困らせてはいけないと思ったのか、泣きわめいたりしませんでした。

 

 娘と徒歩で自宅のアパートを目指しました。街は異様な雰囲気で、空気がピリピリ。吹雪の中、娘の手をギュッと握ったまま、ほぼ無言で歩きました。アパートは家具が倒れて物が散乱。早々とあきらめ、避難所に向かいました。

 

 その後、両親らと福島県郡山市にいる姉一家を頼りましたが、安心できる住まいを求め、娘と2人、新潟へ行ったり、郡山へ戻ったりしました。浪江町に立ち入れない現実が悔しくて悔しくて。その年の5月にやっと群馬県太田市に落ち着けました。

 

避難生活で歌手になる夢をめざして

 避難生活の中、携帯が鳴りました。知人の郡山のライブハウスの店長でした。子どものころから歌手になるのが夢で、そこに出入りしていました。店長から「こんな時だからこそ音楽をやらないか」。

 

 後日、落ち着いたころ、故郷への思いを表現した「いつかまた浪江の空を」を作り上げました。被災3日目の夜、トイレで携帯のメモに打った詩を歌詞にしました。

 

 太田市で6年が過ぎた17331日、浪江町は一部を除いて立ち入り禁止が解除され、11歳になった娘を連れて一時帰宅しようか悩みました。娘に聞くと、「行きたい」。私は何度か申請して一時帰宅していましたが、娘が帰るのはあの日以来です。

 

 荒れ果てたアパート。娘は押し入れからおもちゃの掃除機を見つけました。私が掃除機をかけていると、娘もまねをしていたものです。保育園も見に行きました。娘なりに思い出を探したのでしょう。

 

 その娘ももう高校生。震災や避難生活を経験して、強くたくましく育ってくれました。私が娘を支えるのは当たり前です。でも、ふと思うんです。私こそ、娘に支えてもらったんじゃないかって。支え、支えられ。歌を続けられたのも、娘のおかげです。いつか浪江へ帰りたいですね。

 

牛来美佳(ごらい・みか)

 

 19857月福島県浪江町生まれ。20223月メジャーデビュー。群馬県太田市を拠点に活動し、同県内や浪江町などでコンサートを開催。222日に「いつかまた浪江の空を」を含む3曲を収めたCDを発売予定。同23日に太田市民会館でCDリリース記念復興支援ライブ2023を開催予定。詳細は本人のHPで案内している。

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2022.7.31「上毛新聞」掲載

群馬県太田市へ避難した牛来美佳さんが10周年ライブ

 古里の復興願いきょう市民会館

 

東日本大震災で被災し、太田市に避難しているシンガー・ソングライターの牛来美佳さん(37)=福島県浪江町出身、写真=が31日、同市民会館でデビュー10周年を記念した復興支援ライブを開く。「多くの人に支えてもらった。感謝の気持ちでステージに立ちたい」と話している。

 

「古里のことを伝えなくてはという使命感を勝手に背負い、歌い続けてきた」と、10年を振り返る。活動を共にしてきた「G-namieプロジェクト」の仲間に支えられ、記念ライブを開くことを決めた。

 

 毎年、震災の3月に合わせて復興コンサートを開いてきたが、近年はコロナ禍で活動が制限された。20年は無観客開催で動画配信。昨年は来場者を300人に限定した。今年は開催できなかった。「歌う場所がないのは本当につらかった」

 

 10年間で感じたのは、諦めず夢に向き合えば必ずかなうということだ。「震災後、町から人がいなくなり、どうすればいいのか全く先が見えなかった。だが自分を奮い立たせて一生懸命やっていたら少しずつ応援が増え、皆さんの心に響くものを伝えられた」と実感する。

 

ライブでは15年に発表した代表曲「いつかまた浪江の空を」などを歌う。京都出身のシンガー・ソングライター、ふくい舞さんも出演する。「壊れてしまった古里は元のようには戻らない。だが、新しい形でもう一度復興させたい」。避難した人たちが浪江の美しい空を一緒に見上げる日が必ず来るとの思いを込める。

 

 チケットは当日3500円。小学生以下無料。収益は浪江町などに寄付する。問い合わせ、チケットは市民会館(☎0276-57-8577)へ。


2022.3.11「日本経済新聞」全国版  掲載

浪江町出身の牛来美佳、復興の希望を歌に込め

 

 東日本大震災で被災した福島県浪江町出身のシンガー・ソングライター、牛来(ごらい)美佳による復興に向けた希望の歌「いつかまた浪江の空を」が11日、配信で発売される。作曲家の山本加津彦との共作で2015年に動画配信サイトで発表していた曲だが、中高生の吹奏楽や合唱で取り上げられるなど、じわじわと全国に広がり、改めてキングレコードから配信されることになった。「苦しい状況の中から、未来へ歩きだそうとする歌。あきらめずに歌い続けてきてよかった」と語る。

 

 浪江町で生まれ育ち、故郷からほど近い福島第1原発で事務員として働いていた。地震発生時も原発にいたという。母子家庭の彼女は当時5歳の娘を連れて避難する。原発の事故で、町そのものがなくなってしまうのではないかとの不安に襲われながら「いろんな思いを詩につづって、携帯電話に打ち込んでいました」と振り返る。

 

 浪江町は全町民が強制避難を余儀なくされ、自身も群馬県太田市で避難生活を始めた。「浪江の現状を多くの人に知ってもらいたいとの思いが募る中で、そうだ、私には音楽がある、と思い立ちました。小学生の頃から詩を書くのが好きで、歌手になりたいという夢もあったのです」

 

 震災の翌年、旧知の作曲家、山本に手紙を書いた。09年に浪江町で開かれた音楽祭で、偶然知り合ったのだという。「手紙には浪江町の曲を書いてほしいと書き添えておきました」。それがきっかけで共作したのが「いつかまた浪江の空を」。山本は西野カナやJUJUといったJポップのスターを手がける第一線の作家だ。「私は荒れ果てた浪江の様子を多くの人に知ってもらいたいから、歌詞も強い言葉を使いがちでしたが、山本さんは浪江の今ではなく、未来の歌に導いてくれました」

 

 曲は13年にできあがった(作詞は牛来と山本、作編曲は山本)が「私は納得できなくて、しばらくこの曲から離れていました」と苦笑する。「思い返してみると、この曲と正面から向き合うために必要な時間だったのですね。やっぱり、この歌を歌いますと山本さんに申し出て、レコーディングを始めたのは151月でした」

 

 「録音を進めるうち、この曲には子どもたちの声も入った方がいいと感じ、町に相談しました」。福島県二本松市の仮校舎にいた浪江出身の小学生21人の合唱を収録して完成した。「15311日に動画配信サイトのユーチューブで発表してから7年、今回の配信を機にホームページで合唱用の楽譜を無料でダウンロードできるようにしました。合唱曲として多くの方々に歌っていただければうれしい」と語った。

 

 「いつかまた浪江の空を」は、ももいろクローバーZの佐々木彩夏が総合プロデュースを手がけ、浪江町とのコラボレーションを活動の中心に据えるアイドルユニット「浪江女子発組合」のデビューアルバム「花咲む」(223日発売)にもカバーバージョンが収録された。今後、若い世代にも浸透していきそうだ。

(吉田俊宏)

 

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2022.3.10「産経新聞」全国版  掲載

「いつかまた浪江の空を」被災者歌手、

11日デビュー 歌で震災伝える

 

 

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の影響で生まれ故郷の福島県浪江町を離れた1人のシングルマザーが11日、望郷と復興への思いを込めた歌で、大手レコード会社からデビューする。避難生活を続けている牛来(ごらい)美佳さん(36)だ。「震災のことを歌で伝え続けたい」と語る牛来さんに話を聞いた。

 

 牛来さんは、避難先の群馬県太田市を拠点に平成24年から音楽活動を続けている。

 

 27年3月11日に動画投稿サイトで発表して反響を呼んだ自主制作の歌「いつかまた浪江の空を」にキングレコード(東京)が注目し、11日から各種音楽サービスに配信する。

 

 避難指示が出たふるさとへの思い、帰郷を信じて前進を誓う気持ちなどが歌われている。

 

 11年前の3月11日。関連会社に勤務していた牛来さんは、福島第1原発の敷地内にあったオフィスで被災した。両親らとともに浪江町の自宅を離れ、福島県郡山市や新潟県内の親類宅を頼った後、その年の5月から5歳の娘と2人で太田市に避難している。

 

 避難者のための借り上げアパートに入居した牛来さんは、台所の窓の外の景色を見て、「なぜ、ここにいるのだろう。なぜ、故郷から出ないといけないのだろう」と悔しさや悲しさが募った。

 

 牛来さんは8歳の頃から歌手に憧れ、作詞のまねごとなども始めた。ノートの端に思いついた言葉を書き留め、破いて靴箱にためていた。震災から3日後の夜も避難先で、携帯電話に「散り散りになっても心はつながっている」などと思いを書きつづった。

 

 高校時代は郡山市で過ごした。その際、市内のライブハウスに出入りするなど、歌手になる夢は膨らんだが、19歳で妊娠。20歳で浪江町に帰り、シングルマザーになった。

 

 知り合いのライブハウスの店長が、安否確認の電話をくれたのは親類宅に避難していた頃だった。「こういうときだからこそ、音楽をやらないか?」。そのときは何も答えられなかった。だが、太田市に落ち着いて心が決まった。

 

 「震災の経験を、歌で伝えよう。いや、伝えなくてはならない」

 

 作曲の経験はほとんどなかったが、店長らの協力で6月から曲づくりなどに着手。震災から1年後の翌24年3月、自主制作の4曲入りミニアルバム「浪江町で生まれ育った。」が完成した。表題曲は、震災の3日後に携帯に書き留めた言葉を歌詞にした。

 このミニアルバムをきっかけに〝被災者シンガー〟の存在は福島や群馬のメディアに知られ、各種音楽イベントに招かれるようになった。800枚作ったミニアルバムも完売した。

 

 その年の5月、牛来さんは一時帰宅で訪れた浪江町の姿を写真に収めると、西野カナらのヒット曲を手がける作曲家、山本加津彦(かつひこ)さんに送った。浪江町を思って作曲してほしいと書いた手紙を添えた。

 

 山本さんとは21年に浪江町の音楽イベントで知り合った。震災後、安否確認のメールもくれていた。

 

 「浪江町は、青空がとてもきれいだった。あの空の下でまた人々が再会し、住めるようになることを願い、未来に希望を持てる歌を作ろう」と山本さんは太田市まで駆けつけてくれたが、曲作りは難航した。

 

 「私は荒れたままの町の様子など現状を、そのまま伝えたかった。私の歌詞は、感情むき出しで荒々しかった」

 

 共作した歌は25年に完成したが、山本さんがいう「希望」に、「心がついていけなかった」と明かす。歌う決心がついたのは26年の暮れだった。27年3月、福島県二本松市の仮校舎に通う浪江町出身の小学生たちの合唱を加えて録音は完成。それが、「いつかまた浪江の空を」だ。

 

 浪江町は29年に一部を除いて避難解除になったが、牛来さんは、「まだ、帰るとも帰らないとも決めていません。音楽を通して培ってきたものを、町のために生かせるようになって帰れたらいい」と話している。(石井健)

牛来さんは「いつかまた浪江の空を」の配信に伴い、「NAMIENOSORA PROJECT」を立ち上げた。合唱用の楽譜をインターネット上で無料配布。子供たちが合唱する動画を募集して紹介する。「震災の記憶が薄れる中、当時を知らない子供たちに、この歌を歌ってほしい」としている。詳しくはhttp://namienosora.com/

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2022.3.9「毎日新聞」全国版  掲載

東日本大震災11年/上 いつかまた、浪江へ

シンガー・ソングライター、牛来美佳さん(36

 

 

 「被災者の一人として、生きる意味や心のよりどころを失った人たちに寄り添い、私自身も力をもらいながら、前を向いて歩いていきたい」。東京電力福島第1原発での勤務中に被災し、当時5歳の娘と県外に避難したシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(36)。生まれ育った福島県浪江町への思いや自身の経験をつづった曲が反響を呼び、今年311日にメジャーデビューすることが決まった。

 

2011311日。東電の協力会社従業員として、原発敷地内の建物3階で事務作業に追われていたが、ガタガタと音が鳴り始め椅子から倒れ落ちそうになった。とっさに携帯電話を手に立ち上がったものの、はっても歩けず、ようやく屋外にたどり着いた。普段なら車で15分の保育園まで、渋滞や道路の遮断のため2時間かけてたどり着き、無事な娘の姿を見つけた時には強く抱きしめた。

 

 

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2022.3.8「朝日新聞」全国版  掲載

東日本大震災 3.11 震災・復興

「放射能」 娘に覚えさせなかった 原発内で働いたシンガーの葛藤

 

 

避難したシンガー・ソングライター牛来美佳さん

 「放射能」という言葉は娘に覚えさせないようにしていた。「目に見えないバイ菌があるから、帰れないんだよ」。5歳の娘とともに、原発に近接する福島・浪江町から群馬に避難した元原発作業員でシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(36)は、そう娘に言い聞かせてきた。「学校で放射能のことを言ったらいじめにあうかもしれない」。友人の子どもは、転校の理由が原発事故であることが知れ渡るといじめを受け、学校に行けなくなったという。

 震災当日も、福島第一原発所内にある東京電力の関連会社で勤務していた。所内で働く人の放射線量を放射線管理手帳に記録する仕事だった。働いているときも、地震が起きたときも、原発の危険性についての認識はなかった。地震が起こり、所員の安全が確認された後、帰宅指示に従い帰宅の途についたという。急いで娘の保育園に向かった。

「いつかまた浪江の空を」を合唱曲として広めるプロジェクトも立ち上げた。ホームページから無料で譜面をダウンロードできる。

 娘は無事だったが、翌日に同僚から「危ないから、離れたほうがいい」と電話を受けた。自宅は原発から約4キロの距離にあった。よくわからないまま、娘を連れて浪江を離れた。県内の郡山市にある親戚の家に着くと、水素爆発を起こし、煙を上げている映像が映っていた。自分の職場だった。「もう帰れないんだ」と思った。ほんの23日で終わると思った避難生活は、まもなく11年になる。 

                                                                 ...<この記事の続きは、「朝日新聞 デジタル記事」へ 


2022.3.11「スポーツ報知」全国版  掲載

 福島県浪江町出身で、現在は群馬県太田市で避難生活を送るシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳が10日、浪江町の町長・吉田数博氏を表敬訪問し、義援金を贈った。

 牛来は、2018年から避難先で毎年、復興支援チャリティーコンサート「G‐namieプロジェクト」を実施。浪江町役場や創成小中学校等に義援金や物資を寄贈し続けてきた。「昨年のコンサートは、コロナ対策で300名限定のライブ開催となってしまいましたが、少しでも浪江の復興のお役に立てたらうれしい」と願った。

 牛来は、震災当時、福島第一原発所内の関連企業で働いていたが、震災後にシンガー・ソングライターとして活動開始した。「着の身、着のまま浪江町を離れ避難生活が始まり、その現実をどうしても受け止められない自分がいました。今起きていること、故郷・浪江のことを、どうしても伝えたい、居ても立ってもいられない思いでした」。震災の3か月後にはCD制作に取り掛かり、講演会など、も精力的に行ってきた。

 2015年にYouTubeで発表した楽曲「いつかまた浪江の空を」が、11日に配信で発売される。牛来は「一体どこに届いているんだろう…」と疑心暗鬼になることもあったが、「この機会に浪江のことをより多くの方々に知っていただき、ふるさとの復興、全国の災害で苦しんでいる皆さんの心にも寄り添えれば、嬉しいです」とアピールした。


2022.3.11「山陰中央新報」掲載

復興の希望 歌で伝える「いつかまた浪江の空を」 牛来美佳さん

 

 

 東日本大震災から11年を迎えるのに合わせ、復興への希望を伝える「いつかまた浪江の空を」が配信リリース(11日、キングレコード)された。

歌うのは福島県浪江町出身のシンガー・ソングライター牛来(ごらい)美(み)佳(か)さん(36)。楽曲に込めた思いを聞いた。

 

 「震災直後の風景を忘れることはできない。『(自分の経験を)伝えなきゃ』という思いを、音楽に重ねて歌い続けてきた」。

牛来さんは真っすぐに前を見つめながら、これまでの歩みを語る。

 

 「いつか」が生まれたのは2013年ごろ...

 

 

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2022.2.27「上毛新聞」掲載

 

復興への希望を歌に

シンガー・ソングライターの牛来美佳さん、

11日に配信 福島出身・太田市に避難

 

 

「いつかまた浪江の空を」

 東日本大震災から11年を迎えるのに合わせ、復興への希望を伝える「いつかまた浪江の空を」が配信リリース(311日、キングレコード)される。歌うのは福島県浪江町出身で群馬県太田市に避難しているシンガー・ソングライター、牛来美佳さん(36)。楽曲に込めた思いを聞いた。

 

 「震災直後の風景を忘れることはできない。『(自分の経験を)伝えなきゃ』という思いを、音楽に重ねて歌い続けてきた」。牛来さんは真っすぐに前を見つめながら、これまでの歩みを語る。

 

 「いつか-」が生まれたのは2013年ごろ。西野カナさんら人気歌手の楽曲を手掛ける作曲家、山本加津彦さん(42)が作曲し、歌詞は2人で仕上げた。子どもの頃から歌手を夢見てきた牛来さんは09年、浪江町で開かれた音楽イベントにバンドで参加し、山本さんと知り合ったという。

 

 東京電力福島第1原発事故の影響で避難を強いられている浪江町の人たちが一緒に暮らす日が来ることを願う、祈りにも似た歌詞。一方で13年ごろはまだ「希望」や「未来」を歌うには早過ぎて、牛来さんの心が悲鳴を上げてしまった。「歌おうと思っても気持ちが入ってこない。イントロが流れるだけで曲を止め、拒絶するようになった」

 

 福島に残ると決めた両親と別れ、115月から群馬県で暮らすようになっていた。幼い娘を育てるシングルマザーでもあった。「なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのか」「震災がなければ」。悩み続けたが、やがて転機が訪れた。

 

「たくさんの人と出会い、支えられ、応援してもらったが、震災がなければ出会えなかったと気付いた。その時、何十年かかったとしても浪江の復興を見られたら幸せだと、希望を持ち始めた」

 

14年にレコーディングを決意し、子どもの歌声を入れるというアイデアで山本さんと一致。福島県二本松市の仮校舎  で学んでいた浪江町出身の児童21人の協力で、コーラスを録音した。今回リリースするのは、この時に作り上げたものだ。

 涙がいつか笑顔に-。牛来さんは「いつか-」が合唱曲として幅広い世代に親しまれればと願う。同楽曲の特設ホームページでは楽譜を無料ダウンロードできるようにしている。

 

 「いろいろなことがあっても乗り越えて生きていくしかない。この生き抜く力を、音楽を通して、震災のことを通して伝えられたら」


2021.3.18「上毛新聞」掲載

「感謝込め歌届けたい」

福島から避難の牛来美佳さん 20日に太田で慈善ライブ

 

 

福島県浪江町出身で、東日本大震災の影響で群馬県太田市に避難しているシンガー・ソングライター、牛来美佳さん(35)が20日、太田市民会館で復興支援チャリティーライブ「~いつかまた浪江の空を~」を開催する。これまで関わった全ての人に「感謝の気持ちを込めて歌を届けたい」と意気込んでいる。

 

 これまで、「音楽を通じて震災を伝える」という思いが強く、震災で傷ついた自らの心は無視していたという牛来さん。震災から10年たち、「傷ついた自分と向き合えるようになった。『伝える人』である以前に、自分も一人の被災者になってもいいんだと思えた」という。

 

311日に、久しぶりにプライベートで中学3年の娘を連れて同町を訪れた。更地となった町を見て、むなしさを感じた。「復興に向かっている証拠」と言い聞かせたが、「どんどん私たちの浪江町でなくなる」という現実を突き付けられたという。

 

 コンサートを最後に、復興支援活動を行う「G-namieプロジェクト」の活動に終止符を打つ。「復興はまだ終わらない。一度区切りを付けて、自分のペースで震災を伝え続けたい」と話す。

 

 コンサートでは代表曲「いつかまた浪江の空を」や、「ホントはね、」などを歌う。ゲストにはシンガー・ソングライターのふくい舞さんや、ロックバンド「BOOWY(ボウイ)」の元メンバー、高橋まことさんらが出演する。

 午後2時開演。全席自由、一般3千円、小学生以下無料。収益は運営費などを除き、浪江町や市内の避難者の支援に役立てる。

                                   問い合わせはG-namieプロジェクト実行委員会へ。


2018.3.13「東京新聞」(群馬版)掲載

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201803/CK2018031302000153.html

(2018.3.13 掲載)

 

「ふるさと浪江を熱唱 牛来美佳さん <心の中で寄り添って>」

 

東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から七年を迎えた十一日、太田市で復興などを願うイベントがあった。

 

東日本大震災復興支援コンサート「長岡寺(ちょうこうじ)ライブ いま、私が望むのは」が長岡寺(酒井晃洋住職)で開かれ、原発事故のため福島県浪江町から同市へ避難しているシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さんらが出演した。

 

会場の本堂には二百人あまりが詰めかけ、歌や演奏に耳を傾けながら被災地に思いを寄せた。

 

 牛来さん自身が二月に撮影した浪江町の荒れた田畑などの映像を上映。代表曲「いつかまた浪江の空を」を切々と歌い上げると涙ぐむ人もいた。

 

牛来さんは「たくさんの人に出会い支えてもらいました。(復興には)おそらくあと何十年もかかるでしょう。心の中で寄り添っていただきたい」と訴えた。

 

尾島ボランティアセンターでは「3・11を忘れない=絆のつどい=」があった。主催はボランティア団体でつくる市社会貢献活動連絡協議会(赤堀賢一会長)。

つどいでは、あの日を忘れないようにと三・一一メートルの「ながーい絆のり巻きづくり」が行われた。のりの上に敷いた白飯と、卵焼きやキュウリ、カンピョウなど七種の具材を子どもからお年寄りまでが声を合わせて一気に巻いた。黙とうの後、のり巻七本は切り分けられ参加した百人の昼食になった。「普段の生活がいかに幸せか考える一日にしましょう」と赤堀会長は話した。

 


2021.3.18「上毛新聞」三山春秋 掲載

2018/03/22 【三山春秋】

町から突然、人がいなくなった

 

 

町から突然、人がいなくなった。昼食の片付けも、干した洗濯物もそのままに。東京電力福島第1原発事故後の福島県浪江町の光景だ。一部を除いて避難指示が解除された今も復興にはほど遠い

「忘れないでほしい、あの事故を」。そんな思いを込めて、避難のため静岡県へ移り住んだ塾経営の堀川文夫さん(63)、貴子さん(64)夫妻が昨秋、絵本「手紙 お母さんへ」を自費出版した 
 
多くの人の共感が得られるように、絵本という手段を選んだ。愛犬「桃」を語り手に、避難を余儀なくされて心身ともに疲弊していく家族と桃の死を描く
 
物語には夫妻の悔しさと無念さがにじみ、胸が締め付けられる。28枚の絵は全国に散り散りになった塾の教え子たちも協力し、総勢19人で仕上げたという

 

太田市に避難しているシンガー・ソングライターの牛来美佳さん(32)も塾生の一人だった。帰れぬ故郷を歌で表現してきたが、昨秋からは恩師の絵本の普及活動に尽力。市内全小中学校に寄贈した。被災者の思いを伝え続ける

 

4月1日には堀川さんらを招いて市内で復興支援チャリティーライブを開く。事故後初めての対面で、これからの復興についても舞台で語り合うそうだ。牛来さんは歌にこうつづる。〈涙がいつか笑顔に変わる日が来る〉。願いが一日も早く実現することを祈っている。

 

 


2018.3.13「毎日新聞」(群馬版)掲載

https://mainichi.jp/articles/20180313/ddl/k10/040/136000c

(2018.3.13 掲載)

 

東日本大震災7年

「心の復興、音楽で支援 歌手の牛来さんがゲスト 太田でライブ /群馬」

福島・浪江から避難 当時の服装で感謝伝え

 音楽の力で心の復興を手助けしようと、太田市の音楽愛好家らが11日、太田市西長岡町の長岡(ちょうこう)寺で復興支援ライブを開いた。福島県浪江町から太田市に避難しているシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(32)がゲスト出演し、約200人の聴衆やスタッフたちに「震災がなければ出会えなかった人たち、支えていただいている人たちとのつながりを大切にしていきたい」と感謝の思いを伝えた。【阿相久志】

 牛来さんは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生した7年前の3月11日に着ていたのと同じ服…

 


2018.3.12 「朝日新聞」(群馬版)掲載

https://www.asahi.com/articles/ASL3C64WYL3CUHNB00G.html

 

「群馬)震災7年、被災者へ思い寄せ」

 

東日本大震災から11日で7年。

 

太田市西長岡町の長岡寺では、地元住民らでつくる実行委員会による復興支援コンサートが開かれた。福島県浪江町出身のシンガー・ソングライター牛来(ごらい)美佳さん(32)の歌に、集まった約200人が聴き入った。

 

 この日、牛来さんが着ていた服は、7年前の被災当時に着ていたものだ。当時は東京電力福島第一原発の下請け会社で仕事をしており、「まさにこの日だったのかと思うと、こみ上げる思いはたくさんある」と説明した。

 《いつかまた浪江の空を また…

 

https://www.asahi.com/articles/ASL3C64WYL3CUHNB00G.html


2018.3.12 「上毛新聞」(群馬版)掲載

(2018.3.12 掲載)
 

「自作曲 故郷の空へ 浪江から避難の牛来さん 太田でライブ」

 
東日本大震災の復興支援コンサート「長岡寺ライブ いま、私が望むのは」が11日、群馬県太田市西長岡町の長岡寺(酒井晃洋住職)で開かれた。福島県浪江町から太田市に避難しているシンガー・ソングライター、牛来美佳さん(32)が地元の近況を伝え、故郷を思う自作曲「いつかまた浪江の空を」などを歌った。
 
牛来さんは震災当日に着ていた服で舞台に上がった。7年の月日について「周囲から話し掛けられて、そっか、もう7年だと。こみ上げる思いはたくさんある」と等身大の感覚を述べた。コンサートはGO!DO音楽祭実行委員会(石原健司委員長)が震災翌年から開いている。ゴスペルやコーラス、チェロの独奏などもあり、被災地を思う心を一つにしていた。


2018.3.9 「産経新聞」(群馬版)掲載

-東日本大震災7年-

「故郷を思って歌い続ける シンガーソングライター、

牛来美佳さん(32)福島から避難、群馬で活動」

 

 東日本大震災は間もなく発生から7年を迎える。群馬にも多くの人が移り住み、新天地での生活や仕事に希望を見出している人もいるが、それぞれの故郷への思いは消えない。東京電力福島第1原発事故の影響で福島県浪江町を離れ、避難先の太田市を中心に活動するシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(32)は再び故郷で暮らす日が来るのを信じて、歌い続けている。(平田浩一)

 

 「現実問題として、難しいとか無理だとかが正直、前提になってしまいますが、浪江町に戻りたい気持ちはもちろんあります」

 

 震災以降、福島県郡山市などで避難生活を送り、最終的に10代のころに数カ月過ごした経験がある太田市に長女とともに移り住んだ。

 

 「自分の生活を考えさせられた7年間だった。最初の3年間は、とにかくどこでも歌を聴いてほしい、聴いてほしいと突っ走った」

 

 一方で、太田市への愛着も深くなっていった。

 

 「シンガー・ソングライターの活動がなければ、人との出会いもなかった。それで今があるんだと思うと、これからは太田が故郷のような気持ちに定着していくのではないでしょうか」

 

原発事故の影響で全町避難が続いた浪江町は昨年3月、一部を除き避難指示が解除された。

 

 今年に入り、1月中旬と2月下旬に浪江町で歌手活動を行った。久しぶりに街中をゆっくり回ったが、目にしたのは除染などで出た廃棄物が入った山積のフレコンバックの衝撃的な光景だった。

 

 友人らも故郷を離れ、バラバラに暮らす中、震災から丸7年を迎える11日、太田市西長岡町の長岡寺(ちょうこうじ)で恒例の「復興支援コンサート〜長岡寺ライブ」を開く。

 

メインとなる曲は、故郷への思いを込め、3年前に発表した「いつかまた浪江の空を」。それぞれの地で暮らす住民が再び故郷に戻って空を眺められる未来を信じて頑張っていこうというメッセージソングとなっている。

 

 「(浪江町からの)強制避難は、人生で思いも寄らない出来事だった。起こってしまったことなので、誰を責めるとか、誰が悪いとかではない。どんなことがあっても人は強く、たくましく生きていかなければいけないと思わされた、きっかけになりました」


2018.3.2 「毎日新聞」(群馬版)掲載

https://mainichi.jp/articles/20180313/ddl/k10/040/136000c

 (2018年3月2日掲載)

 

-東日本大震災7年-

「福島・浪江に思いをはせ歌う 牛来さん、近況を伝え続け

太田で11日、復興支援ライブ出演/群馬」

 

ふるさとに思いをはせて歌いたい--。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で、福島県浪江町から太田市に避難しているシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(32)が、震災発生から7年目となる11日に太田市西長岡町の長岡(ちょうこう)寺で開かれる復興支援ライブにゲスト出演する。「被災地の現状が知られる前に、震災の記憶の風化が進んでいる」と懸念する牛来さんは、4月1日には太田市民会館(飯塚町)で復興支援チャリティーライブを開催し、浪江町などの原発事故被災地の現状と復興への取り組みを紹介する。

 「長岡寺ライブ」は地域の音楽愛好家たちによる「GO!DO音楽祭」の実行委員会が2012年から毎年、…

 


2017.9.3 「福島民友」(福島版)掲載

http://archive.fo/tTjB9

(2017.9.3 掲載)

 

「音楽の力で心の復興 牛来美佳さんら歌声、浪江ふれあいフェス」

 

音楽などを通して心の復興を願うイベント「浪江ふれあいフェスティバル」が2日、浪江町地域スポーツセンターで始まった。地元出身のシンガー・ソングライター門馬よし彦さんや牛来美佳さんらが歌声を響かせた。3日まで。

 ふくしま食祭実行委の主催。浪江復興の思いを持ったアーティストや住民らが集まった。
 初日は、東京電力福島第1原発事故に伴い山形県長井市に移って酒造りを再開させた鈴木酒造店(浪江町)の銘酒「磐城寿」で鏡開きが行われた。
 ステージでは牛来さんや門馬さん、福島市出身のシンガー・ソングライター菅野潤さんらが歌などを披露した。加工品などの販売ブースも設けられ、来場者が買い求めた。
 最終日は、浪江のど自慢カラオケ大会や、東日本大震災時の地元消防団員の葛藤などを描いたアニメ映画「無念」の上映会などが予定されている。時間は午前10時~午後3時30分。

2016.5.22 「福島民報」(福島版)掲載

http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2016/05/post_13756.html

(2016.5.22 掲載)

 

福島第一原発事故

「復興の願い歌に乗せ 広野で音楽イベント 日本青年会議所」

 

日本青年会議所(JC)の音楽イベント「被災地に心を寄せる事業 未来へつなぐメッセージ」は21日、寛仁親王妃信子さまを迎え、広野町中央体育館で開かれた。参加者は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故の風化防止と風評払拭(ふっしょく)を改めて誓った。
 

全国各地のJC会員と一般町民ら合わせて約600人が参加した。山本樹育(しげなり)会頭が「福島の現状を知り、見て、考えたことを行動に移す契機としてほしい」とあいさつ。開催地の遠藤智町長が歓迎の言葉を述べた。
 

浪江町出身のシンガー・ソングライター牛来美佳さんが古里をテーマに創作した「いつかまた浪江の空を」を、シンガー・ソングライター川嶋あいさんが本県、岩手、宮城の中学生に話を聞いて作った「とびら」をそれぞれ披露した。

 

2人に、いわき市の湯本一中合唱部の23人が加わり、日本JC復興支援ソング「未来へつなぐメッセージ」を合唱した。
 

信子さまは牛来さんと川嶋さん、湯本一中の合唱部員に自らレシピを考えたジャムをプレゼントされた。
 

南双葉JCの木村聡理事長が「音楽の力を受け、これまで以上に地域の復興の歩みを進めることを誓う」と謝辞を述べた。

■今年度事業意見交わす 日本JC理事会

 音楽イベントに先立ち日本JCの理事会が開かれ、今年度事業について意見を交換した。
 同JCは震災と原発事故後、被災地で理事会や復興創造フォーラムを開いている。県内では平成23年5月に郡山市で理事会、26年3月にいわき市でフォーラムを開催した。
 同JCの代表者は20日、浪江町の津波被災地などを視察した。21日には広野町で田植えを体験した。


2016.3.10「毎日新聞」(群馬版)掲載

https://mainichi.jp/articles/20160310/ddl/k07/040/003000c

(2016.3.10 掲載)

 

東日本大震災

「福島第1原発事故 浪江思う4曲熱唱

群馬に避難、牛来美佳さんライブ /福島」

 

原発事故で浪江町から群馬県太田市に避難しているシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(30)が、同市の長岡寺(ちょうこうじ)で開かれた「長岡寺ライブ」に出演した。会場となった本堂に入りきれない約200人の聴衆が集まり、ライブの最後には「ふるさと」を合唱し、復興への願いを分かち合った。

 4曲を披露した牛来さんは、昨年3月11日に発表した「いつかまた浪江の空を」も熱唱。浪江町の子どもたちの歌声が入った音源を使い、昨…

 


2016.3.8 「朝日新聞」(群馬版)掲載

http://www.asahi.com/area/gunma/articles/MTW20160308101170001.html

(2018.3.8 掲載)

 

東日本大震災5年

「復興の願い熱唱 太田で支援コンサート」

 

県内や福島からの避難者の音楽家らが出演する、東日本復興支援コンサート(GO!DO音楽祭実行委員会主催)が6日、太田市の長岡寺であった。約200人の観客が集まり、演奏や歌声に耳を傾けた。

 

 コンサートは市内で活動するシンガー・ソングライター星野幸則さん(58)が東日本大震災の2週間後に作った曲「いま、私が望むのは」がきっかけで、2012年に始まり、毎年、この時期に開いている。

 

 星野さんが最初に登場し、この曲を歌った。日常生活を送ることができる幸せを描いた曲だという。「歌を通じて、あのときのことを思い出してくれたかな。日常を過ごせる幸せを忘れてはいけない」

 

 シンガー・ソングライター牛来美佳さん(30)は、故郷の浪江町の映像を映しながら「いつかまた浪江の空を」などを歌った。「現状を伝えながらも未来を伝えたいと思い、曲を作った。昨年より今、少しずつ浪江の未来を信じて思い描くことが出来ていると思う」と話した。

 

 歌を聴いた浪江町出身の女性(70)は「自分が育った土地が汚され、悲しみと絶望感がある。震災や原発事故でこんな状況になるんだと伝えていく努力をあきらめてはいけないと強く感じた」と話した。


2016.3.4 「朝日新聞」(群馬版)掲載

http://www.asahi.com/area/gunma/articles/MTW20160304101170001.html

(2016.3.4 掲載)

 

東日本大震災5年

「浪江の未来 歌に託し」

 

あの震災から間もなく5年が経つ。福島第一原発の事故の影響でいまだに故郷に戻れないシンガー・ソングライターの女性は、「生きる力が試された5年だった」と語った。6日、太田市で開かれる東日本復興支援コンサートに出演する。未来はまだ見えないが、いつか、涙が笑顔に変わる日が来る――。積み重ねた思いを歌に託し、伝える。

 

 遠く遠く 窓の外眺めて 元の未来 探すけれど

 どこにあるの…

 

 福島県浪江町から避難してきたシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(30)が、昨年に発表した「いつかまた浪江の空を」の歌詞の一節だ。

 

 「『元の未来』という表現は普段しませんよね。どんな未来だったのでしょうか」

 

 福島第一原発から30キロ圏内に町のほぼ全体が含まれる浪江町は、帰還困難や居住制限区域などに指定され、全町民が町外に避難した。牛来さんはプロモーションビデオの撮影のため、2年前から故郷を数回訪れた。商店街には誰もいない。立ち入り禁止のバリケードの先を見つめ、切なくなった。

 

 伝えたくて

 諦めたくなくて

 想い 歌に 叫ぶけれど

 どこに届くの…

 

 これまでも、震災後の浪江を歌った曲を発表してきた。「この歌詞は私自身。浪江の現状を伝えている歌手活動が、どこに届くのでしょうか」

 

 ビデオには、浪江町の小学生の歌声も収録した。町には6校の小学校があったが、原発事故後は4校が休校し、2校が福島県二本松市で合同の仮校舎となった。収録当時、全校生徒は21人。「浪江に帰って、この歌を家でみんなと歌いたい」と話す子どもたちの笑顔は、希望にあふれているように見えた。

 

 牛来さんは震災から5年を振り返り「生きる力が一番試された5年間だった。失ったものが多いほど、教えられるものが多く、悔しい気持ちがあるほど生きていく力に変えていくしかなかった」。

 

 いまも太田市で娘と暮らしながら歌の創作を続けている。先の見えない不安な生活が続く。

 

 曲名にある「いつか」に浪江の未来を込めた。「数十年後、百年後かもしれないが、どんなに時が流れても、浪江町に人があふれるところを見たい」と話す。

 

 いつかまた浪江の空を またみんなで眺めたいから

 歩くよ どこまでも歩くよ

 涙がいつか 笑顔に

 変わる日が来る

 

 コンサートは午後2時~4時、長岡寺(太田市西長岡町728)で開かれる。県内のバンドなどが出演する。牛来さんは震災の3日後に書いた曲など数曲を披露する。浪江町の映像をスクリーンに映し出しながら歌い、収録した浪江の児童の歌声も流れる。入場無料。

 


2015.3.7 「毎日新聞」(全国版)掲載


2015.3.5「読売新聞」夕刊 (全国版)掲載

東京新聞(群馬地方版)に

掲載されました。


東京新聞:被災者に関心を 福島から避難の歌手・牛来(ごらい)さん 太田で8日 復興支援の無料コンサート:群馬(TOKYO Web) http://t.co/fiUthBtNF3



2015.1.24-SAT-FM桐生 ゲスト出演!

2015.1.24-SAT

 

ラジオ出演FM桐生 16:00~

「舞 Love Music」

 

ゲスト出演…牛来 美佳

 

※サイマルラジオからも視聴出来ます!

楽しいトークをぜひぜひお聴き下さい~♪

 

【サイマルラジオ】

http://www.simulradio.info/


2015.1.10-SAT-NHKラジオ第一 全国放送

2015.1.10-SAT

NHKラジオ第一 全国放送

9:05~9:55

「シリーズ・被災地からの声

~NHK東日本大震災アーカイブス~」

 

収録取材…牛来美佳 出演


2014.8.4-MON-ラジオ福島「月曜Monday夜はこれから!」

2014.8.4-MON

 

RFCラジオ福島 出演!

大和田 新アナ番組

「月曜Monda夜はこれから!」

19:00~20:50

https://www.facebook.com/Monday1458

 

同じく浪江町出身アーティスト

門馬 よし彦 さん、牛来美佳

ジャーナリスト 渡部 真 さん

以上のゲストで出演します♪

Ustreamでも配信しているそうなので、

ぜひチェックして下さいね。


2014.5.11-SAT-NHK福島放送局「警戒区域内でのLIVE」取材映像放映

【牛来美佳 避難区域でLIVE in小高】

 

 


2014.4.25-FRI-FM桐生「友ラジ!」ゲスト出演!

2014.4.25-FRI

 

FM桐生 ラジオ出演

「友ラジ!」

20:00~

 

ゲスト出演

・雑賀 泰行

・牛来 美佳

 

サイマルラジオから聴けます。

ぜひチェックしてね♪


2014.3.11 上毛新聞 牛来美佳 取材記事掲載

震災から満3年。

取材を受けたことが掲載された。

 


2014.3.11 毎日新聞(地方版-群馬)牛来美佳 取材記事掲載

震災から満3年。

取材を受けたことが掲載された。



2014.3.11 東京新聞(地方-群馬)牛来美佳 取材記事掲載

「~帰りたい、帰れない…被災者の気持ち込めライブ

浪江から太田へ避難 シンガー牛来美佳(ごらいみか)~」

 

取材を受けたことが掲載された。

 


2014.3.10 読売新聞(地方版-群馬)牛来美佳 取材記事掲載

「~復興支援へ群馬・太田の寺で音楽祭。

福島・浪江から避難する歌手・牛来美佳さんが自ら作詞作曲の歌熱唱。~」

 

取材を受けたことが掲載された。


YouTube UP!群馬テレビ「震災から間もなく3年…牛来美佳出演」


2013.4.17-「福島民報」取材記事掲載!


You Tube UP!!テレビ生出演(2013.3.14放映-群馬テレビ ニュースeye8)

*mica goRai-牛来 美佳-テレビ生出演*

 

2012.3.14放送
群馬テレビ

20:00~21:00
「ニュースeye8」
~牛来美佳 歌で復興メッセージ~

 

番組内にてスタジオへ生出演。

トークと「浪江町で生まれ育った。」を歌唱披露。 


2012.12.13-「福島民報」取材記事掲載!

2012.12.13 福島民報

「今を生きる 被災者の希望 歌に

15日初の単独ライブ」

取材記事が掲載されています。

 

福島県外の方にも

読んで頂けたらと想います。

どうぞ、ご覧下さい!

http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/12/post_5738.html

 

 

(2012.12.13更新 mica goRai)


2012.10.31 「NHK前橋放送局」(群馬版)取材映像

2012.10.31放送
NHK-前橋放送局
18:40~19:00
「ほっとぐんま640」
番組内にて牛来美佳 取材映像。

 

-----以下、「ほっとぐんま640」HP内番組表 引用-----

 

アングルぐんま

~福島を忘れないでシングルマザーの歌声~

太田市に住むシンガーソングライターの牛来美佳さん。
福島県浪江町の出身で、6歳の娘と去年6月から太田市で避難生活を送っています。
牛来さんの生活をおそった東日本大震災。
その避難先で生まれた曲はインターネットで自主販売すると、福島県から県外に避難している人たちなどを中心に話題を呼び、これまでに300枚を売り上げました。
 今、牛来さんは福島に対する偏見と忘れ去られてしまうのではないかという不安と焦りを感じています。全国に散らばる福島の避難者を1人でも元気付けられるよう、そして福島を忘れないでほしいという気持ちをこめて歌い続ける姿を伝えます。

 

 


2012.10.14 朝日新聞-地方版(福島)取材記事掲載!

2012.10.14 朝日新聞の地方版(福島)に、

取材記事が掲載されています。

 

地方版と言う事で福島県外の方にも読んで頂けたらと想います。

どうぞ、ご覧下さい!

http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000741210130001


2012.8.1-WED-さくらFM(兵庫県西宮市)           トークリレー生電話出演

2012.8.1(WED)

 

さくらFM(兵庫県西宮市)16:00~

パーソナリティ:おしな-OSHINA-

トークリレー生電話出演

 

おしなさんと!この距離を生電話トークで繋げます!

 http://sakura-fm.co.jp/archives/357

 


2012.5.22-THU-群馬ラジオ-FM太郎

2012.5.22-(THU)

 

12:30~12:45

18:15~18:30

群馬ラジオ「FM太郎」

太田インフォメーション

~太田市長との対談~


2012.4.20「上毛新聞」掲載

mica goRai

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